白い影の記憶



 まだ、雑木林や畦道の草木に季節の移ろいを感じる
ことのできた時代の日本のお話です。


 薄雲の空が、茜色から群青色に変わる黄昏時の秋の
風は、もう、ブラウス一枚では、肌寒いころでした。

 いつものように、いつもの時間に、バスから降りた
途端、飛び込んできた二つの白い影。瞬く間に蛍光性
の粉末を舞い踊らせて、坂の上の家影に消えていきま
した。
 深い藍色に染まっていく、ひんやりとした空間に、
その粉末は、しばらく漂ったままで、それは、懐かし
いティンカーベルの魔法の粉を想い出させました。
  そして、その一瞬だけ、見慣れた平凡な風景が、微
妙な青の陰影に彩られた一枚の絵のようにも見えたの
です。

 「ほんとうにきれいな蛾は、蝶なんかより、ずっと
きれいなんだ。」
 男の子は言いました。

 夜行列車の窓遠く、白銀の尾根を連ねる山並みが、
あの絵のような光景を想い出させ、女の子が、白い蝶
の話をしたからです。
 信州の雪山に行くのも、ひと晩がかりで、人々は、
のんびりと、旅での語らいを楽しんでいた時代でもあ
りましたから…。

  昆虫に夢中になっている男の子は、蛾の話を沢山し
ました。熱帯のジャングルにいる群が、どんなに艶や
かな光景を繰り広げるか。
 醜い茶色の斑点の無様な飛び方をする蛾に見慣れた
女の子は、嘘だと思いました。それに、「が」なんて
言葉の響きより「ちょう」のほうが、ずっと素敵だと
思ったからです。
 でも、熱心に蛾の話を続ける男の子の眼差しの光は、
なかなか素敵だと思ったのです。


  夜行列車は、一行を白銀の尾根の麓に導きます。突
き刺すような寒さは、人々をより敬虔な気持ちにさせ、
小さな羽虫のように、なめらかな斜面を彷徨しながら
ひとときの戯れに埋もれていくのです。


 何度季節が巡ったことでしょうか。同じ季節の同じ
時間にあの坂道を見上げるのですが、白い影は表れま
せん。男の子が言った言葉を確かめようと思っても、
二度と見ることはなかったのです。

 もう何年も、この地方では見かけない種類のもので
したから、何かの間違いでうっかり迷い込んできただ
けだったのかもしれません。


  いつしか女の子は、白い影のことも男の子のことも
想い出さなくなっていました。もう、すっかり成長し
て、女の子と呼ぶには、ふさわしくないくらいでした
から…。


 ある日、女の子は、海を越えて、熱帯の島にやって
きました。ジャングルというほどではありませんが、
高層ビルの向こうに、日本よりずっと強い色彩の自然
が残されていました。
 四季の移ろいは、微かで、一年中、極彩色の花々が
咲き乱れ、見たこともなかった虫や生き物たちが、飛
び交い、這いずり回っているのです。
 女の子は、日本にいたときより、ずっと興味を持っ
て、虫たちを眺めました。男の子の話した、群をなす
艶やかな光景は見られませんでしたが、世界中の虫た
ちが見事な標本になった、博物館があったのです。


 女の子は、記憶の中から白い影の大きさを呼び覚ま
し、ちょうど同じくらいのものを探し始めました。
  それは、蝶の中にも、蛾の中にも見つかりました。
そのほかにも、バイオリンの形をした虫とか、枯れ葉
そっくりの虫とか、珍しいものが沢山ありました。
 女の子は、あの男の子は、こんな虫たちのことを、
知っているのかしらと思いました。もし、見たら、ど
んなに喜ぶかしらとも…。


 結局、白い影が何だったのか、どうしてあの日だけ
飛んできたのか、分かりませんでした。

 ほんとうは、ティンカーベルの魔法の粉がつくりだ
した幻影だったのかもしれません。

 そう、それで、女の子は、あの儚い白い影の記憶を
キャンバスに留めてみたいと思ったのです。